ハンドスピナーはまわり続ける

 

 

 

ひと昔、といっても数年前の話だが「ハンドスピナー」なる玩具が流行していた。簡単に構造を説明すると、放射状についた羽をボールベアリングによってただただ回転させる玩具である。感覚的にはほんの数ヶ月間の出来事だったが、当時、子供や学生を筆頭に、ニュースキャスターや芸能人、ハリウッドセレブらが小さなの車輪をくるくる回して、満足そうな表情を浮かべていたのを覚えている。流行時には大まかに「何が楽しいのかわからない」という否定派と「なんだかわからないけど面白い」という肯定派がハンドスピナーの意味を探り合う議論を起こしており、主にテレビやネット、SNSでその賑わいを見せていた。

 

俺はどちらかというと前者であった。否定派だ。そもそも実物を手にしたことがないからだ。ハンドスピナーが登場してから今の今まで、俺は一度もハンドスピナーを回したことがない。あれは一体なんだったんだ。何が楽しいんだ。今でも時々考える。

 

ブームがおさまりかけていたある日、友人とゲームセンターでハンドスピナーを見かけた。UFOキャッチャーの景品であった。「ハンドスピナーあるよ」と言うと、友人は「ああん?」と怪訝な顔をしていた。大体察しがついた俺は「ハンドスピナぁ〜」とゆるく話を流した。その後、駄菓子を沢山買って帰った。そういえば、俺の周りでハンドスピナーを持っている人は誰もいなかった。もしかしたら持っていたかもしれないが、「ハンドスピナー持ってます?」と聞くのもなんなので、自発的にスピニング(ハンドスピナーを回す行為)をしている人に巡り合わなければ、俺はいつまで経ってもスピニングすることも、この手に収めることもできないでいた。

 

今となっては、ハンドスピナーを街で見かけることは無くなった。その代わりに、丸っこいもちが入った飲み物や謎の肺炎が流行している。俺は流行が好きだ。みんなが好きなものが好き。謎の肺炎は流行というよりも感染症なので除外するとして、タピオカも飲んでみたいし、激辛グルメも少し挑戦してみたい。何ならタピオカは一度飲んだことがある。ハンドスピナーの件で俺は反省したのだ。勧められたタピオカを俺はドキドキしながら飲んだ、見た目の意外性や可愛らしさを抜きにしてタピオカは普通に美味かった。驚いた。普通に美味いことに。叶う事なら、なんらかの催しでラッスンゴレライも経験しておきたかった。こじらせたおかげで、「おっすンゴレライ」という謎の挨拶が俺の中で誕生してしまった。こじらせを抱えきれずに、ハミ出しを起こしてしまった。ちなみに「おっすンゴレライ」は高確率でシカトされる。当時まともにラッスンゴレライを受け止めていれば、こんな悲しい言葉は生まれなかったはずだ。

 

俺は急に流行り出す馬鹿馬鹿しいものが好きだ。特にハンドスピナーには大きな魅力を感じる。21世紀にもかかわらず、人は「ただ回転するもの」「ただただ面白いもの」に関心がある。これは本当に面白いことだ。なぜあの時、輪の中に加わらなかったのか本当に残念でならない。しかし、受け入れるのが難しいのも理解できる。訳わからないものに身を任せろと言われても怖いに決まっている。放射状の回転する羽に肩を預ける。なんだ「放射状」って怖すぎる。俺に黙って放射しないでほしい。


だが、身を任せないとわからない場面もあるはずだ。投げやりに卑下するのはダメだとおもう。できるだけ考えて卑下したい。これ以上「スピニング」やら「おっすンゴレライ」なる造語を生み出してはいけないのだ。しかし、この造語を生んだ享楽の元をたどれば、それもまた「ハンドスピナー的な肌感覚」によって発動されるものなのかもしれない、そうなるとますますハンドスピナーのもつ感覚は、俺にとって価値のあるものなんじゃないかと回転数が上がっていってしまうのである。

 

ハンドスピナーハンドスピナーのまま、あれからずっと俺の頭の中をスピニングしている。おそらく日本製だろう、粘り強いベアリングだ。